佐藤 毅・安川 一 1992a「社会的相互行為」(第1章第1節)福祉士養成講座編集委員会(編)『改訂社会福祉士養成講座 12 社会学』中央法規, pp.16-27.


社会的相互行為

[VIEW]   社会学的な思考の出発点は、居合わせた人たちの間のやりとり、つまり、社会的相互行為にある。何より、社会生活をおくる私たちにとって、他の人たちの存在、そして、他の人たちとのやりとりは、意識するしないにかかわらず、逃れることのできない、その意味で強固な現実だからである。それこそ、私たちにとって直接的一義的な“社会”なのだと言ってもいい。では、この社会的相互行為とはどのようなものとしてあり、また、どのように構成されているのだろうか。それが本節の問いである。

 

1.匿名性・社会的場・相互行為

社会生活の匿名性
 私たちは、どこにいてもおおかた他の誰かと居合わせ、意識するにせよしないにせよ、何らかの影響を与え、受けている。しかも、その人たちのことをそれほどは知らない。
 バス停やレストランでよく見かける人とは、言葉を交わすことがあっても名前までは知らない。駅員や売店の売り子とは、顔なじみだけれどもそれ以上ではない。いや、そうした人たちでさえ例外だろう。何しろ、通勤・通学の途上などで居合わせた人のほとんどは、名前も、仕事も、行き先も、その時の感情も思考も……知る由もないし、知る必要もないし、また、知りたくもない。もちろん、自分もまた知られたくはない。
 考えてみると(少なくとも都市型生活では)、私たちが過ごす時間=空間の多くはそうした「匿名性」に満ちている。街頭、飲み屋のテーブル、映画館、ディスコ、等々で居合わせた人たちに対して、個人的な特定はできない。彼/彼女らは、ただ単に性別や年齢や職業や人種、あるいは、オッサン、女子大生、家族連れ、恋人どうしといった、ある種の「社会的カテゴリー」の一事例としてそこにいるだけ。自分自身がまたそうだ。そんな中、私たちは、互いにカテゴリーの一事例として視線の隅に捉え合い、それだけで安心してすぐさま忘れ去る。こうした匿名性の事実を、都市生活の開放性とも気安さとも、また、冷たさとも孤独とも言う。しかし、いずれにせよそれは確かな事実である。
 そして、社会学的思考にとっては、この匿名性の時間=空間が必ずしも無秩序ではないところが興味深い。名も知らぬ人たちとの、その場その場の共在――居合わせること――とやりとりが、まさに“自動的に”一定の秩序を形作っているのである。

社会的場の構成ルール
 そうした“秩序”の揺らぎを感じるケースから発想してみよう。例えば、休日の昼間のターミナル駅、いつものラッシュ時のつもりで雑踏を進もうとすると、いやに窮屈な思いをすることがある。流れのリズムやスピード、顔々になじみがなく、歩き慣れているはずの風景に戸惑う。あるいは、混んだ車内をランドセルをぶつけながら移動していく小学生、電車の戸口近くを占拠する観劇帰りのオバサン集団、大声をまき散らす中年団体、誰かれなく話しかける酔っぱらい、ガラガラの車内で隣にピッタリ詰めて座ってくる人、等々の振る舞いに、私たちは“ルール破り”を感受し、当惑する。
 こうした当惑は、私たちがふだん自明視し、意識していない事柄を垣間見させてくれる。そもそも、私たちが社会生活をおくる「社会的場」(駅頭、コンビニエンス・ストア、会議場、パーティ、イベント、等々)は、私たちの活動や関係のあり方に一定の枠をはめるものだ。つまり、アクセスの制約や、成員資格と服装の限定、行動の内容や目的の幅、等々、完全に意のままなどという時間=空間はまずない。どの時間帯に、誰と何をどのようにするか、その際どのような外見と振る舞いをするかについては、それぞれに当然視された様式がある。当惑とは、こうした様式の乱れに対する感覚なのである。
 社会的場はひとつひとつ違うし、私たちへの要求も様々だ。もちろん、人によって受け止め方も千差万別だろう。しかし、そこにはいくつかの一般的な“ルール”を指摘することができる。第1に、私たちは互いの「テリトリー」の侵害を避ける。つまり、その場にふさわしいように、相互の距離の維持に努め、互いの個人空間を尊重する。例えば、満員電車の私たちは、窓の外や中吊り広告をながめ、手元の文庫本に無理やり視線を落とし、あるいは目をつぶる。そうやって、物理的に維持しえない距離を心理的に確保する。
 第2に、私たちは互いに「儀礼的無関心」を実行する。例えば、スクランブル交差点を渡る私たちは、それぞれに、自分は単に今現在の自分の行動をしているだけで、周りの人に個人的な興味はない、そのことをシグナルし続けている。そうやって私たちは、互いの無関心の重なり合いの中をすれ違う。
 そして、第3に、私たちは互いに、典型的で適切でノーマルな外見と振る舞いを続けようとする。つまり、その社会的場に不適切でない人物であることを、外見と振る舞いに表す。私たちはそうやって、自分が周りのテリトリー侵犯をするおそれのない人物であること、周りにとって危険な存在でないことを周囲に示している。
 こうして私たちは、匿名的に共在し、すれ違う。しかも、そのことがある種の秩序を形成する。私たちは互いに、既存のカテゴリーの典型的な一事例として居合わせ、相手に対してもそれ以上の関心を持とうとはしない(少なくともその様子をみせる)。これが共在の秩序の原則――私たちの社会的体験の底流には、そうした事実がある。

 

2.相互行為リスクと相互行為儀礼

相互行為の回路と技法
 さて、私たちが社会的相互行為の典型として思い浮かべるもの、例えば、挨拶、談笑、口論、喧嘩、セックス、恐喝、等々は、そうした社会的体験の底流から括りだされ、顕在化した、相互性の濃密な部分である。社会学者E・ゴフマンは、これらを「焦点のある集まり」と呼んで、これまで述べてきたような、ある場所でたまたま共在しているだけの身体集合である「焦点のない集まり」から区別した。これについて2点指摘しておこう。
 第1に「焦点のある集まり」は、その外の世界との間に境界を形成−維持して、それ自体を周囲から区別する。つまり、何らかの焦点もしくは主題(交渉、抗議、ご機嫌うかがい、やりとりそのもの、等々)との関わりで、人と出来事の流れに一定の枠がはまる。例えば、正規の参加者とそれ以外の傍観者、言及していい話題とそれ以外の事柄、していい振る舞いといけない振る舞いが区別される。そして、やりとりの間に生じた出来事は、すべてこの焦点との関わりで解釈され、意味づけられることになる。
 第2に「焦点のある集まり」には、それをひとつの世界として維持するための、様々なやりとりの回路と技法がある。例えば私たちは、相手にも話題にもやりとりそのものにも、一定の関与を維持し、そのことを表明していなければならない。目を逸らしたり、欠伸をしたり、一方的に自分だけしゃべったり、話の輪の外にいる人に視線を送ったりといったことは、やりとりを頓挫させる可能性がある。何をどう切りだし、どこまで突っ込み、どこまで熱中し、どう終わらせるか、といったことの数々を、ふさわしい視線の交差、声の大きさや抑揚、口調、表情によって、うまく処理していかなければならない。そして、このような回路と技法は、私たちの場当たり的な発明ではない。私たちは既製のやり方を採用して対処する。例えば、相手への要求や命令を若干の躊躇や配慮の雰囲気で味付けする(毒抜きする)様々な言語表現を思いうかべてみればいい。
 こうして、様々な回路と技法の運用の中に、様々な相互行為が具体化する。運用にしくじれば、場の秩序も相互行為も破綻する。逆に言えば、真意がどうであれ、運用さえうまくいけば相互行為は相互行為として成立する。例えば、詐欺師とそのカモ。ふたりの動機も意図も解釈の仕方も明らかに違う。しかし、それは“正当な”回路と技法に則っているかぎりで、既に“正常な”相互行為なのである。

相互行為リスク
 しかし、運用の問題だけが、相互行為の脆さなのではない。むしろそれは、組成それ自体において破綻の可能性を孕み、参加者にある種のリスクを負わせている。
 例えば、通常、私たちは話しかけられればこれに応じる。しかしこれはリスキーな事態である。場合によっては、身体的、社会−心理的な面倒(恐喝、懇願、勧誘、侮辱、詐欺、等々)に巻き込まれかねない。一方的にまくし立てられたり、かみ合わない話をさも楽しげに続けられたりもする。自分が話し下手だと思っていればもとより話すこと自体が苦痛だろう。だいたい、相手をしている暇など本当はないのかもしれない。私たちはただ、頬骨に笑顔を引きつらせながら、現実化したリスクを噛みしめる羽目になる。
 といって、むげに拒絶もできない。話しかける方も相応のリスクの中にいるからだ。その人は意を決して私たちのテリトリーに入ってくる。相手の都合を考えない図々しいやつ、等と評価されかねないリスクも犯しながら。彼/彼女は私たちに向かって回路を開き、それ以外を閉じる。だから、これを私たちが拒絶してしまうと、その人は一時的に社会的交流の世界から放り出されてしまう。「やあっ!」と声をかけた相手が人違いだった場合のバツの悪さを考えてみればいい。これはリスキーだ。しかも、事態は私たちにとってもリスキーである。何しろ、これを拒絶してしまうと、今度は私たちの方が、リスクをおして話しかけてきた人をおもんばかれないやつ、等と評価されかねない。だから、とにかく相互行為するよりない(キャッチ・セールスなどにはそれが狙い目となる)。
 もちろん、私たちはいつもこんなに自閉的ではない。知人の姿をみつければ嬉しいのが普通だし、それこそ“自動的に”対応する。しかし、このような相互行為リスクが顕在化するケースは実に多い。自室の電話が鳴った場合を考えてみよう。込み入った仕事、トイレの中からでも、あわてて出てきて受話器をとる。が、何かの勧誘だったり、悪戯電話だったり、やたらと話の長い友だちのお喋りだったりする。それも一方的に相手の話が始まって、延々付き合わされたあげく、切るに切れない。で、留守番電話で対抗する。と、かけてきた方が戸惑う。相手の都合を考えない図々しいやつ、等と評価されかねないリスクを押して電話してきた彼/彼女は(このことの自覚のない人は幸福だろう)、普通なら最初のうちは探りを入れる(誰でも話し方や声のトーンがいつもとは違う)。しかし、留守番電話だとこれが“空振り”になる。探りや配慮がその場で受け止めてもらえない。しかもこの戸惑いそのものも後から(ことによるとそのすぐそばで)相手に聞かれる。

相互行為儀礼
 私たちは相互行為リスクの中にいる。やりとりの開始そのものがリスキーであり、展開の過程がまたひとつひとつリスキーである。もちろん、その処理は相互的な営みの中でなされるが、またそのことが新たなリスクを生んでいく。相互行為とは、まさにリスクを幾重にも孕みながら展開していく壊れ物である。だが、意識し過ぎることがむしろ“病的”だと言われるくらいに、普段はこのことに自覚がない。リスク処理のために、ある種の文化の発明が機能しているからだ。先に述べた相互行為の回路と技法は、私たちが習熟を求められる(=社会化される)そうした発明のひとつである。ここではさらに、相互行為そのものを相互行為として成立させる、「相互行為儀礼」に言及しておこう。
 その最たる事例は、始まりと終わりの定型句的挨拶である。「あら、どちらまで」「ちょとそこまで」に、内実的に意味はない。それはむしろ、ただ単に、共在の底流に相互行為の世界が顕在化したこと(あるいは終わったこと)を告げているだけだ。もちろんそれは、話しかける方についていえば、受け手の都合が悪ければ逃げ道を用意しておくといった性格のものであるし、受け手についていえば、話し手の配慮を察しつつも適当な距離と余地を残して逃げ道を確保しておくといった性格のものである。一方が防御しつつ踏みだせば、もう一方が保護的に受け止める(受け流す)。そしてまた一方は、相手の保護的察しを察しながら自分の話を続ける。相互的な配慮と、このことを表現する慣用的行為の重なり、そのような相互行為の儀礼的足場の上に、やりとりが進行することになる。
 言い換えればそれは、相互行為は相互尊重の過程――“顔”の立てあい――として進行するということでもある。つまり、相手から一歩引いておくこと(回避儀礼)によって、あるいは、尊敬語等による直接的な表現(呈示儀礼)によって、相互行為者は互いに表敬する。と同時に、同様なことを相手ができるように、自分の外見と振る舞いに気づかい、品行を整える。互いが“顔”をつぶさぬよう、場を台無しにしないよう、相互尊重の対人儀礼を守り続ける、そこに相互行為が成立する。
こうして、相互行為は、相互行為者それぞれが相互行為儀礼に則って互いに尊重しあうことを通して初めて相互行為となる。脆く壊れやすい、リスクを孕んだ相互行為は、儀礼という枠組み、もくしは重しによって、かろうじてその姿を保つのである。

 

3.相互行為と印象管理

相互行為と役割
 ところで、私たちは常に“誰か或る者”として相互行為の中にいる、つまり、特定の役割関係の中で相互行為しているわけだが、この“誰か或る者”と“私”との関係が、なかなか一筋縄ではいかない。
 ここでいう「役割」とは、相互行為における各々の位置に関連して期待される行動様式のことである。医師や教師に期待される行動を思い浮かべればいい。しかも、これには単に行動そのものだけでなく、知覚や思考や感情の様式が含まれ、さらにまた、期待される人物イメージが含まれる。つまり、ある位置を占めようとする(占めざるをえない)人は、ある行動様式を採用すると同時に、ある人物であることを要求される。例えば、医師であれば、患者や看護婦や職員との役割関係における医師としての行動(診察や治療)に加えて、冷静沈着で理知的な、温厚で丁寧な態度を要求されている。
 しかも、人はこのような行動様式/人物の背後で、それら――「役柄」――を演じる、「プレイヤー」とも「パフォーマー」とも言える存在でい続ける。これには「役割距離」という発想を引き合いに出して考えてみるのがいいだろう。つまり人は、役柄とプレイヤーとの間に一定の距離を表出することがある。役柄がそのプレイヤーを覆ってしまうことに対する距離である。例えば、ある仕事を、いかにもつまらなそうに、いかにもばかにしたようにしてやっている人は、そのことによって、その仕事の取るに足らなさを表現していることになる。熟練や余裕、自尊心や不本意、あるいは露悪趣味の表出である。
 いや、何も特に意図的な演技のことを言っているのではない。様々な関係を生きる私たちは、同時に様々な位置に置かれ、それゆえ様々な役割を強いられているのだが、そうした複数の役割が私たちに対して同時に異なる行動様式/人物を要求してくることは少なくない。むしろ、そうした事態――役割葛藤――は通常のことである。例えば、教師は生徒との関係において、厳しい評価者であると同時に、親しい理解者であろうとする。上司と部下に挟まれた中間管理職者の境遇を考えてもいい。そして、この葛藤の中で、しばしば私たちは、つきつけられた複数の行動様式/人物を、プレイヤーとしての自分から切り離そうとする(「わかってくれよ、役目とはいえ、俺もつらいんだから」)。

役割取得と役割形成
 しかし、ともあれ私たちは、このように「役割」において相互行為の世界に入り、また、身体的存在である自分をこの世界につなぎ止める。いわば人は、役割の中に存在を与えられて初めて“人”となる。ここで役割と呼ばれるものは多様である。一方には職務として規律化され明示化されている制度的役割があり、他方にはインフォーマルな関係の中にそれこそ自然発生的に定着していった対人的役割がある。そうした硬軟様々な役割を得て、私たちは自分のあり方を基礎づけ、相互行為へと入り込んでいくことができる。
 この意味で、役割は相互行為の準拠枠である。つまり、私たちは、一方で、役割の中に他の人たちの様々な行為を意味付け、その意図やパースペクティヴ、等々を理解しようとする(役割取得)。他方で、他の人たちがたやすく理解できるように、また、自分自身が蓄積してきた自己イメージと齟齬がないように、役割の中に自分自身の行為を構成していこうとする(役割形成)。私たちは役割関係の中で、相手の行為を読解し、自分の行為を呈示するのである。相互行為はその産物なのだ。
 もちろんこのことは相互的な営みであり、しかも、役割葛藤が常態であるように、それは必ずしも常に調和的であるわけではない。自分と相手のそれぞれの役割取得/役割形成は、協調的なこともあろうが、競合的だったり、すれ違いだったりもするだろう。いや、相互性、もしくは相互依存性という事実そのものが、相互行為の形成過程に根本的な脆弱さをもたらしていると言ってもいい。なぜなら、私たちの役割取得/役割形成は、基本的に相手の出方の想定しだいである。しかも、この事情は相手の方も同じである。つまり、相互行為は、互いの想定、互いの想定に対する想定、またそれに対する想定、というように、想定どうしの重なり合いの中を進行する。したがってそれは、ともするととりかえしのつかない誤謬を含みかねない、幾重もの偶然、もしくは幸運の産物だとも言える。

印象管理
 そして、だからこそ情報の管理が重要にもなる。相互行為の中で自分が、また周りの人たちが利用できる情報はといえば、まずもって、それぞれの外見であり動作である。私たちは、そこから得られる情報――「印象」――をもとに、役割取得/役割形成し、それらに導かれて相互行為を組み立てていくよりない。相互行為の安定や実効を望むのであれば、この印象を、その社会的場に、またそれまで蓄積してきた自分のイメージに、ふさわしいものにしておく必要がある。他者を助けて、読解が容易なように、少なくとも齟齬が生じにくいようにしておく必要がある。単なる“いいカッコしい”のことではない。役割取得/役割形成を、相互行為を、さらには社会的場を、破綻なく進展させていくための基本的材料として、また、それぞれの行為を噛み合わせていくための枠組みとして、印象は安定的に管理されていなければならない(印象管理)。それは社会的要請なのである。
 しかも、私たちはこのことを相手にも求める。そしてそこにしばしば「配役」をめぐる支配権争いや押しつけが起こる。そうでなくとも、多分に、自分の管理する(したい)印象にみあうものや、自分の思考習慣になじんだ外見と振る舞いを相手に求める。教師が生徒に、市民が警官に、恋人どうしが互いに、それぞれに思う“ふさわしい”外見と振る舞いを要求するように。管理すべき印象や配役をめぐる競合や摩擦も生じるだろう。窮屈さや不本意さや不満を感じることも少なくない。しかし、ともあれこうした緊張を孕むやりとりの中で、ひとりひとりのあり方が確定されていくのである。
 こうして私たちは、相互行為の中、役割に枠取られて“私”(「自己」)に出会う。それは、結局のところ相互行為の中に存在するものでしかない。揺らぎもし、潰れもし、安定もする。しかしそのすみかは、あくまでこの脆い相互行為の場なのである。

 

4.他者の理解、もしくは“コミュニケーション”の傲慢

 私たちの住む相互行為の世界は、そして住民である私たちのあり方は、いかにも危うく、脆い。それらの形をなんとか保っているのが、慣習的な回路と技法、あるいは相互行為儀礼と呼ばれる、文化の発明である。そして、この発明がまた誤解、曲解の原因ともなり、相互行為を頓挫させかねないものともなるとすれば、そうでなくとも壊れ物であるこの世界の素性は、ずいぶんと心もとないものだと言われなければならない。
 このような発想は、いくつかの点で通常の相互行為観に合致しない。相互行為とは、ナイーヴな実感としては、互いの行動の意味や意図を十分に理解し合い、それぞれの行為を共鳴させていこうとする営みである。しかし、これまで見てきたところによれば、相互行為はむしろ、内面的な交流というよりは外見と形式の噛み合わせに他ならない。
 例えば、相互行為は内発的な「関与」を求めるが、その“実際のところ”は外見から探るしかない。しかも、私たちはただひとつのことだけをしているわけではない。話に興じつつも自分の話しぶりが気にかかることはあるし(主要関与 vs.副次関与)、相手の話を聞き流しながら手元で別のことをしたり別の人と視線を交わしたりもする(支配関与 vs.従属関与)。私たちは、これらのバランスに配慮しながら関与の外見を保とうとする。
 また、相手に対する理解というのが実に心もとない。私たちが互いに相手に依存しながら役割取得/役割形成していること、しかも、それがそれぞれの想定に基づき、したがって幾重もの偶然もしくは幸運の上にのっかったものであることは既に述べた。しかし、どう考えてみてもこの想定にさしたる根拠はない。何しろ、重大な問題でも持ち上がらないかぎり、私たちは、自分の現実把握に誤りはない、他の人も同じように把握しているはずだ、だから、あえてチェックする必要はない、そう思い込んで相互行為している。相互行為は、私たちがそうしたことを考え直してみようとしないという、そのことによって成立しているとさえ言っていい。確かに、過去の「知識の在庫」が動員され、ある程度の見込みの中に、役割取得/役割形成が遂行されてはいる。あるいは、何かを言い訳して、相互行為の障害を取り除こうとする行為に、場面場面で正当とされる紋切り型の理由なり動機なり(動機の語彙)が持ち出されてもいる。が、それだけのことだ。
 こうして私たちは、技法に頼り外見の読解に集中することによって、“理解”を手に入れようとする。それぞれが自明視している前提を相手とその行為にやみくもに当てはめては、それに則った“理解”を安心しようとする。そして、そうやって“理解”できないとなると、むしろ、原因は相手の方にある、相手の方がどうかしている、そんな風にさえ思う。私たちの相互行為、もしくはコミュニケーションとは、多くがそのようにして成立しているのだ。いかにも、皮肉である。最愛の恋人が、同時にまずもって異性という匿名的なカテゴリーの一事例にすぎないように、深い相互行為とは、他者そのものへの深い理解というよりは、むしろ文化の発明と自分が前提にしているものとに対する深い信仰である。あるいは、自分にとって自明な事柄を他の人の行為に押し広げようとする傲慢さ、もしくは、そのことへの無知を省みようとしない怠惰である。


著作1:著編書・論文